からっぽの青春

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読むタイミング

子供の頃から、本を読むことは好き。
字が読めるようになった頃から、とにかく字が印刷されているものだったら、広告でも何でも目に入るものはすべて読みたいと思っていたので、本というよりは、活字そのものが好きだったんだと思う。


読めない字や、意味の分からない言葉については、元来が怠け者なので、けっして辞書を引いたりはせず(笑)前後の文章で想像して読んでいた。

それは、教育的にはとんでもない読み方のはず。
でも、ワタクシの「文章能力」は、そのやり方で伸びたんじゃないかと思っている(^^ゞ
けっして他人様にはお勧めできないし、もちろんこの「文章能力」だって、大して高いわけじゃないんだけど。


小学校低学年くらいまでは、親からこういう本を読みなさい的な干渉もあったような記憶もあるけれど、本さえ読めば賢くなる、成績が上がる、という思い込みが強かった母は、漫画は絶対禁止という以外、読む本の内容にまでは干渉してこなかった。

それは教育熱心な親として、非常に詰めが甘い(笑)と思うが、ワタクシ的には幸いなことだった(^_-)

図書館で、または本屋さんで、目に留まった本を手に取り、数ページどころか、ほんの数行読んで、相性がいい、と感じたら、借りる、あるいは買うというスタイルは、ネットでポチっとできる時代になっても、基本的にはずっと変わらない。

この本は売れているから、という理由で興味を抱くことはあまりない。
本好きな人にはわかってもらえると思うが、ワタクシにとってそのときの自分に必要な本が偶然そこにあって、ワタクシを手招きしてくれる、という感じ。

だから、売れている本を手に取る必要はなかった。

でも近年は、そういう出会いが少ない。
というか、あまり本から手招きされない(;´Д`)


たぶん、ワタクシ側の「本に対するアンテナ感度」が鈍ったのだろう。

年相応の「目」になってきているし、「頭」も若い頃みたいには素早く回転してくれない。
読むスピードも、かなり遅くなってしまった。

そういう現状のワタクシが、「模倣犯」の方は再読とはいえ、4日間でこれらすべてを読了してしまったのは、さすが宮部みゆき氏の作品。

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宮部さんの、初期の頃の作品はすべて読んでいる。
作家名だけで、無条件に作品を購入し、早く新作が出ないかな~と待ちわびるほど、好みの作家だった。

でも、確か直木賞受賞作品で、「あ、これは自分の好みとはちょっと違う…かも」的な感想を抱き、それからは気に入ったものだけを読むようになっていった。
「模倣犯」が出たときも、すぐには読まなかった。
この作品は評判がよかったらしく、すぐに映画化された記憶がある。


幸か不幸か、その映画を先に見てしまった。

この映画作品に関わった方々には申し訳ないけど、ワタクシ的感想はない…つまり、けっして、いい意味じゃなく「何も言えね~」という印象のみ。

ワタクシ的に、映画があまりに…だったから、原作を読んで確かめなきゃ、と思った。

ところが…。

映画化されたものを先に見てしまったからか、どうしても小説としてはちゃんと読むことができなかった。
内容が、あまりにも残酷すぎたこともあって、読んでいる最中も、読み終えても「これはダメ」と…しか思えなかった。
それまでの宮部作品は、少々好みから外れていても、また長編であっても、一気に読めることは間違いなかったのに、これは何度も挫折しそうになった。

読み終えた後は、本箱のいちばん奥に押し込み、ワタクシにはかなり珍しいことなんだけれど、その後、二度とこの本を読み返すことはなかった。


今回、ちょっとしたきっかけで「楽園」を読む気になり、読み始めたら、その勢いは止まらなかった。
寝る時間を削るくらいの勢いで本を読んだのは、本当に久しぶり。

読み終えた後、いや、読んでいる最中に、この「楽園」は「模倣犯」後の話なんだから、「模倣犯」を再読しよう、と思っていた。
「模倣犯」は、たぶん15年ぶりくらいに読んだはずなんだけれど、こちらも、読む勢いが今回は止まらなかった。


再読しなかったのは、最初に読んだときに、自分とは相容れない世界観だった映画を引きずったままで、どうしても、それと切り離しては読めなかったから?

今回の感想としては、内容が内容なので、「好きな作品」「楽しく読める作品」では、けっしてない。
だけど、救いはないものの、人物描写が巧いというか、「人間」を描いていることには、かなり魅かれるものがあった。

宮部さんが巧みなのは、ただの人物描写にとどまらず、人と人との関係性を丁寧に書いているところだと思っている。
人との関わり方次第で、人は救われることもあるし、逆に悪い方へ転がってしまうこともあるけれど、そういう場面の、この作家さんの心理描写は、いつも鋭い。


それにしても…。
読書のタイミングって、とても大事なことがあらためてわかった気がする。
「アンテナ感度」は、年齢によって、その「深さ」「広さ」そして「方向」も違う。
同じ本であっても、読んだ年齢によって「感じ方」が違うのは当然。

そして…小説好きには、映像化作品は、原作が先ということが、やはり鉄則…かな(苦笑)


一気に読んだので、そういう場合のお決まりとして、今後はしばらく時間をおいて、またじっくり再読する予定。
久しぶりに「パーフェクト・ブルー」も「心とろかすような(マサの事件簿)」も、読みたくなっている。



最後に…。
「模倣犯」の中の、「子供は後先を考えずに嘘をつく、それで大人を騙せると思っている」「子供ってのは、みんな自分が世界でいちばんだって思いこんでる」という箇所を読んだとき、あ、最近の自分は、無意識にこの言葉を活字で読みたくて、アンテナ張ってたのかもあ?…ってそう思った(^.^)

見た目が大人でも、いつまでたっても子供のままっていう人は、小説の中だけじゃなく、現実世界にもいらっしゃる(苦笑)


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小さな奇蹟(笑)

以前に比べると、ふらりと本屋さんへ入るということが少なくなり、書棚にずらりと並べられた本の方から、呼ばれる…」ということが減った。
「呼ばれた本…」については、呼ばれるまでは、その本については何も知らないのに、必ずといっていいほど、自分にとっては「当たり」であり、「呼ばれてよかった」…と、後になってそう思う。

今週初め、久しぶりに「呼ばれた…」ような気がした。
昨日、東野圭吾氏の「ナミヤ雑貨店の奇蹟」というその小説をさっそく読み始めたら、あっというまにその世界に惹き込まれた。

けっして号泣はしないけれど、でも、何度読んでも、そのたびに涙するであろう、ワタクシ好みの作品。

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お気に入りの作家は、とことん読みたくなる。
が、東野氏に対しては、何冊か読んでいるものの、まだそこまでの気持ちになるような作品に出会っていない。
だから、数年前に出版された、この「ナミヤ雑貨店の奇蹟」も、目に入らなかった?…(^^ゞ
かなり売れた本らしいが、、その評判も全然知らなかった。

こういう傾向の作品ならばまた読みたいと思いながら、一気に読了。


で、読み終えた後、この小説に関する情報を、一応は見ておこうかと、ネット検索。

驚いたことに、ニューストピック欄に、この原作による舞台化の記事。
昨日から舞台が開幕したそう。

なんという偶然、なんという奇蹟! (笑)

とはいっても、東京や大阪へ舞台を見に行かねば…と思うほどの運命的なものまでは感じないけど('◇')ゞ


しかし…。
あれをどうやって舞台化するのか、という興味はちょっとある。
ドラマ「相棒」の伊丹刑事役の川原さんが浪矢役ということも含めて…。

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本を買うときは…

ぶらりと本屋さんに入ると、なんとなく「本」の方から呼ばれたような気がする時がある。
そんな気がして手に取った本は、世間の評判が高くないものでも、自分にとっては「愛読書」となることが多い。

近年は、一般の書店よりも、ブック〇〇さんやアマ〇〇さんのお世話になることが多くなった。
アマ〇〇さんは、欲しい本を確実に早く入手するために便利で、これからも重宝するだろう。

しかし…。
ブック〇〇さんに関しては、ワタクシの場合、フツーの書店に入ったときと同じ感覚なら、何も問題はないけれど、たまたまセール中だったりするとダメ。
それほど「呼ばれてもない本(笑)」を、ついつい買ってしまう。
それらは、結局読まないままっていうこともある。


今日は、昨日と違って、冬空に逆戻り。
一日中、こたつの人となって、また本を読もうと本棚を探したら、こんなの100円でいいの?と、セールのときに得した気分で買い込んだものが数冊。
どれも、けっこう話題になったり、賞を取ったりした作品だけれど、今考えてみれば、それほど読みたかった作品じゃないみたい(-_-)


本を買うときは、ホントに読みたいと思ったものだけを(^^ゞ

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読書

ほんの少しずつだけれど、陽射しの中に「春」の割合が増えてきているように感じる。
春になれば、このところずっと、深~いところで淀んで(苦笑)いた気分も、晴れてくれるだろうか?


淀んでいても、本は読める状態だったから、ストーリーに入り込めるような本をと、乃南アサさんの「鎖」を本棚から探して読み始め、その後は順番が逆だけれど、「音道貴子シリーズ(短編集)」そして「凍える牙」と読んでいった。

これらの本は何度かは読んでいる(ワタクシの場合、一度しか読まない本は、よほど相性が悪い作品)ので、おおまかな内容は覚えている。
しかし、「チカラ」のある作品は、結末をわかって読んでも、じゅうぶん入り込めるし、以前に読んだときとは違う受けとめかたもできるし、なぜ違う受けとめかたができるようになったかの分析もできる…(^^ゞ

このまま一生「こたつ番」をしてるわけにもいかないけれど、乃南さんの他の作品も本棚にはある。
今まで「大好き」と言える作家さんではけっしてなかったけれど、今回、数冊を再々読したことで、印象が変わったことは確か。
読むこちら側の「視点」が、きっと変わった?

しばらくは、読書の日々で行ってみようか。
そんなこんなの日々を過ごすうちに、いつのまにか気分も上向き、やがて本格的な「春」が訪れてくれれば、もう万々歳(^_-)

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オシツオサレツ

あまりの寒さでこたつから出られなくて、ここ数日ブログ更新をさぼってしまった。
まるで冷凍庫の中にいるかのような「冷たさ」で、一度こたつに入ってしまったら、もう出られないんだもの。


で、なぜかその数日間で、ここのアクセス数が、時代劇ドラマ「ぼんくら」の小平次さんの口癖「うへぇ~」状態になっており、検索キーワードを見て、ようやく理由が判明。


今回のあれは、思ったことのほんの一部しか書いておりませぬ。
自主規制しておかないと、止まらなくなってしまう性格(^^ゞ


最近は、フクザツな気持ちになるばかりだったけれど、今回のはもう…(-_-メ)
しかしながら、ありえないところまで…だったことが、逆にワタクシにとっては、よかった。

個人的に、昨日の「嬉しい出来事」をきっかけに、今までの楽しかったことばかりが思い出され、何だかモヤモヤ感も薄れた…かも。


うま~く『清算(苦笑)』できたら、一歩動けそう…(^^♪
ありがとう~m(__)m(←私信)






さてさて、本日のテーマの「オシツオサレツ」(^_-)-☆

こたつから出られなかったのは、この寒さも理由ではあるけど、コドモ時代の「愛読書」であるドリトル先生シリーズを、本棚のいちばん奥から引っぱり出してきてしまったことも大きい。
師走だというのに、大掃除も一時停止中(^^ゞ

何かのいたずらなのか、ここ最近、いろいろなことが連想ゲーム的に「ドリトル先生」につながってしまった。


柿の季節になった頃、薄く切った柿とマヨネーズをはさんだだけの簡単なサンドイッチを作りながら、ドリトル先生のお話の中で、優秀な家政婦である、アヒルのダブダブが作るサンドイッチの中身は何だったっけ?なんて、ふと思ったのが、まず最初。

きゅうりのサンドイッチがあったことは覚えている。
缶詰のいわしをはさんだこともあったかな。

ドリトル先生は、よく出かける人。
だから、しっかりもののダブダブにサンドイッチを持たせてもらうという場面がたびたび出てきた。


少し前のバター不足と乳製品に関するニュースも、ドリトル先生を連想させた。

お話の中に、チーズやバターやミルクなどの乳製品がよく出てきたからだろう。
夜食のバタ・トーストが出てくる場面で、「バター」ではなく「バタ」というのが、何だか洒落ている、と思った。

悪いヤツに牢屋へ閉じ込められたとき、白ネズミが、先生のシルクハットにいっぱいになるくらい集めてきたチーズのかけらやパンくずで空腹をしのいだり、飲み残しのミルクで髭をそったりした場面は、お気に入りだった。

そういえば、それほど凝った料理ではないのに、あのお話の食事はどれもこれもが、とても美味しそうで、たとえパンくずやチーズのかけらしかないような食事のシーンでさえ、ほんわかとした幸せな気持ちになれた。
まるで自分も、お話の中で一緒に食べてるみたいな気分。


もちろん原作もだけれど、井伏鱒二さんの訳が素晴らしかったことにもよるのだろう。
後年、「黒い雨」を読み、作者が「ドリトル先生」の訳者の人…と知って驚いた。
頭の中で、ふたつの作品がなかなか結びつかなかった。


「久しぶりに」頭の中にドリトル先生の世界が蘇り、また、読みたいとは思いながらも、本棚の奥の方から取り出すのはちょっと面倒だし、と思っていたのだが…。


そんな中、「オシツオサレツ」って「押しつ押されつ」という意味だったのか、と今さらながら、突然気がついた(・。・;

「オシツオサレツ」と言う名前の動物は、印象深い。
なんといっても、身体はひとつなのに頭がふたつあるというのが、コドモだったワタクシの想像をたくましくして、今でも、当時想像したままの姿で、オシツオサレツは、頭の中の記憶棚にとどまっている。

コドモ心に、ハニカミ屋さんなんだけれど、自分の主張はしっかりと持っていたオシツオサレツの性格に、好感を抱いてもいた。



今は、自分のあまりの「鈍さ」に驚いているところ(苦笑)

初めて読んだのが小学5~6年生くらい。
そのときには、おそらく「押しつ押されつ」などという「語彙」の持ち合わせはなかったからだ…と言い訳しておこう(苦笑)

最初に読んだとき、「オシツオサレツ」は、他の登場人物(動物)の名前に比べると、カタカナ表記としては長いから覚えにくかったけれど、一旦覚えると、言葉のリズム感から、忘れることはなかった。


あれから、長い長い…時間が過ぎた。

今頃になって、「オシツオサレツ=押しつ押されつ」っていうことだったんだ、ということに気がつき…。
また、先日の「物覚え挑戦テスト(^^ゞ」の際に、ドリトル先生の中に出てくる固有名詞を連想させるものがあり…。


これは、ドリトル先生をまた「読みなさい」ということなんだろう、と思った。
いいえ、ホントのところは、そういう「お導き(^^ゞ」があり、それに従ったので、結果的に大掃除はできなかったという「逃げ道」を、無意識に自分で作りあげただけなんだけれど(^_^)

本棚の奥から出してきた全12巻(13冊あるのは文庫本の「秘密の湖」が上下巻のため)
            ↓
ドリトル先生シリーズ

単行本の1・3・4・5・6巻までは、小学5年生から中学生にかけて親に買ってもらったもの。
2巻目の「航海記」は、学校の図書館で借りて読んでしまった、と正直に言ったら、読んだものは買わなくてもいいね、と勝手に決めつけられた。

所有できなかったことが、ず~っと心残りだった。
自分でお金を稼げるようになってから買った「航海記」だけは、単行本の中で比較的キレイ。


好きな本というものは、図書館で読んだからそれでいい、というものではない、ということは、親には全く理解してもらえなかったし、こちらも、理解してもらおうとは思わなかった。

そういうところでは、自分はあきらめが早すぎて、主張しない人間だったよなぁ~と、今さらながら、そう思う。


当時、本を買ってもらえるのは、誕生日とクリスマスのプレゼントくらいだったから、6巻目を手にしたときは、すでにコドモとオトナの境界くらいにまでは成長しており、もうこのシリーズはこれでじゅうぶんだ、と思った。

そこまで成長する前、一度だけ2冊いっぺんに買ってもらえたときの、飛びあがるほどの嬉しさは、今も忘れていない。

コドモっていうのは、成長が早い。
図書館で借りてしまうと、絶対に買ってもらえない、と一度学習してしまったことで、二度と図書館ではこのシリーズには近寄らないようにしていた。
結果的に、コドモ時代にこのシリーズ全巻を読む時期を逃してしまった。

今、思えば、こっそり借りてこっそり読めばよかったのだ!
しかし、あの頃のワタクシには、そこまでの要領のよさは、まだなかった。


自分のお金で心残りだった「航海記」を購入したとき、このシリーズが全部で12巻ということは、もちろん知ってはいた。
でも、もうオトナだったから、心残りの分を読むことができたことで、全巻を読まなくても、一応の区切りとした。

その後、その6巻までを読み返すことは何度かあったものの、7巻目以降を文庫本で買ったのは、オトナもオトナ(笑)の40歳を超えてから。


ちょっと真面目に、昔の自分を振り返る機会があり、この際だから全部を読んでみよう、と思った。
コドモのころのあの大きいワクワク感までは、さすがになかったが、このお話の世界観は相変わらず「好き」だった。

現在、「サーカス」「緑のカナリア」「航海記」「キャラバン」と、好きなものから再読の真っ最中。

コドモ時代にいちばん好きだった「サーカス」は、今読んでも楽しい。
オットセイのソフィを海の近くまで連れて行って逃がす場面は、やっぱり昔と同じように何度も読み返してしまった。
何度読んでも、ハラハラするし、クスクス笑う(^_^)


この調子だと…年末の大掃除は?…(^_^;)

大丈夫。
こちらの掃除が終わらなくても、新年は向こうから必ず押しかけてくれる(笑)

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乱紋

今さらだけど、「インターネット」は便利ですな(^_^;)

先日の記事の『歴史ものの小説の中で、永井路子さんの(題名は忘れたけれど)浅井3姉妹の中の末娘「お江与の方」を主人公にした小説』…これを、たぶん35年ぶり?くらいに読んだ。

7日に記事を書いた後、「永井路子・ごう」で検索してみたら、すぐに「乱紋」という題名が判明。
古い本なので当然絶版かと思ったら、新装版が出ていたので思わずポチってしまった。

同じ頃、友達から届いたメール文は「乱紋?」とだけ(笑)
さすが(^o^)/
彼女は、前にワタクシが「伊藤整」と書いただけで「チャタレイ?」とメールしてきたくらいの文学(元)少女…(爆)

で、ポチったものは、早くも9日の夜には手元に。
       ↓
乱紋

こんな装丁だったかな?とか、えっ、上下巻だったっけ?とか、そんな調子で、自分の記憶力のなさに愕然。
しかし、いざ読み始めると、内容に関しての記憶はすぐに蘇った。
まるで昨日読んだばかりのよう…(笑)

若い頃は、作者の視点が斬新で面白いという感想だけが突出していたけれど、この年齢になって読むと、作者の意図も強く感じる。

大河ドラマの「江」では、江による清州会議での立ち聞きだとか、本能寺の変の後で家康に連れられて逃げるだとか、あまりに荒唐無稽で、とてもそれを斬新な視点とは思えない場面があり、だんだん見る気がしなくなった。

一方、この「乱紋」は、三姉妹の性格の違いを明確に描いたことで、なるほど、こういうのもありかな…?と思えてしまうような、歴史もの小説。
この小説上での「おごう」は美人じゃなく、動作も言葉も俊敏ではない。
それに対して、美人の姉ふたりの性格の設定も、作品に説得力を持たせている。
史実は史実として、けっして曲げてはいないから、人物描写や、おごうの身近にいる登場人物が作者の創作であっても、ムリなく作品に入っていける。
でも、好き嫌いは分かれる…かな(苦笑)

久々に、「読書」に集中(^_^)

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第1882回「歴史上で好きな人物は誰?」


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現在生きている人でも「人物像」なんてわからない。
ずっといい人だと思っていても、それは、ある一面だけしか見ていなかったからで、ふと別の視点から見る機会があったときに、すげーイヤなヤツだったと悟ることもある…(-_-;)

なので、歴史上の人物の真の姿を知る由もないんだけれど…。


歴史ものの小説の中で、永井路子さんの(題名は忘れたけれど)浅井3姉妹の中の末娘「お江与の方」を主人公にした小説で描かれているお江与の方(おごう)は好き。

何年か前の大河ドラマの「江」とは、まったく違う人物像。
姉ふたりとは違って、美人じゃなくて、おとなしいというよりも「鈍く」さえ思えるようなつかみどころがない性格、という設定で描かれているおごうは、不思議な魅力があった。


題名が思い出せないのは、本自体が手元にないため。

ある人に貸したら、返ってこないまま、つきあいが途絶えた。
もう30数年以上も前のこと。

不思議なことに、本の題名は忘れても、貸した人の名前はよ~く覚えている(`´)

あ、またテーマから脱線した(笑)

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操作できること…

セミの鳴き声と、夏休みでテンションが高くなっている子供たちがはしゃぐ声の音量は操作できない。

しかし…。
「人のこころ」は操作できる。


数日前、新聞広告で「洗脳」という本の出版を知った。
もう一冊「マインド・コントロール」という本と共に、ネットで購入。
読んでいるうちに「こころを操られる」ということは、私にとって、人ごとと言えるほど遠くはなかったかもしれないと思い、ちょっと怖くなった。

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X JAPAN…音楽の方向性としては好きな部類のバンド。
CDやビデオ・DVDも少し持っている。
でも、「X JAPAN及びToshlご本人」の熱狂的ファンではないし、ステージ上のパフォーマンスについてゆけるほど若くもない。
つまり、ライブへ行こうとまでは思わない。

その程度だから、一時期ワイドショーなどで騒がれていたToshlのことも、そんなに詳しくは知らなかった。


ただ、彼の「洗脳問題」に関することを見聞きする機会は、今までに何度かあった。
それらは、偶然の出来事ばかりだったけれど、なぜか記憶に残ることばかりでもあった。

一度目は、今思えば、おそらく「洗脳」の初期段階の頃のこと。
ToshlがNHKのスタジオパークに出演したとき、たまたまそれを見た。
彼がX JAPAN時代の自分をすべて否定しているかのような言い方に、若干引っかかるものがあった。
そのときの彼は、素顔でサングラスもしていなかった。
短くした髪も黒くて、白いシャツ姿はいかにも好青年というふうにも見えた。

が、それまでの自分自身を否定するような言い方には、一瞬「えっ?」と思った。

二度目はNHKの別の番組で、自分がToshl自身よりも彼の声のことをいちばんよくわかっている、という気持ちが強すぎたんだと思う、という趣旨のYOSHIKIの発言を聞いたときのこと。
この番組を見たのも、ほんの偶然。

彼のことが騒動になって、もうかなりの時間が経った頃のことだったが、その言葉で、YOSHIKI自身、けっしてその現状に納得はしてなくて、何らかの悔いがあるんだろうな、と感じた。

三度目もNHKの番組。
これもたまたまテレビをつけたら、確かYOSHIKIの新しいプロジェクトの一環だとかでX JAPANの曲を他国のヴォーカリストが歌うところだった。
Toshl以外の人にX JAPANの楽曲が歌えるのだろうか、と興味を抱きながら聞くと、確かにそれは非常に歌唱力のある方だった。

でも、この楽曲は、Toshlの声じゃなきゃやはり成立しない…と思った。
もちろんそれは、私の個人的感想にすぎないんだけど(^_^;)

四度目は、大槻ケンヂ氏の著書。
やはり偶然にブック〇〇で見つけた、けっこう「刺激的」な本(苦笑)の中で、思いがけずToshlのことが記されていた。

大槻さんが地方に行ったとき、商店街のCDショップの店頭でCD販売のためにToshlが歌っており、それこそ偶然の久しぶりの再会だったので、飲みに行こうと誘ったけれど、まだ次の仕事があるからと、去っていったそう。

X JAPAN時代に比べたら、あまりにも違いすぎる場所での熱唱。
でも、去っていくその後ろ姿は満足そうに見えた、ということだった。


ワイドショーなどで騒がれても、ホントのことはわからない。
彼がハマったというのが「自己啓発セミナー」ということには、相当引っかかる部分はあったが、X JAPANの音楽の方が、彼にとっては無理しなければやれないことだったのかも…と、その頃の私は、そう思ったりもした。



いわゆる「自己啓発セミナー」は、非常に流行った時代がある。
その大流行よりもまだ少し前の時代から、私が勤めていた会社では、男性社員に対して、ごく普通にその類が社員研修に取り入れられるようになっていった。
そういう研修に参加してきた社員の中には、「妙にテンションが高くて、以前と比べるとちょっと変…」になっている人もいた。
その状態は、日常の仕事に戻るとすぐに元に戻ったが。

その後「自己啓発セミナー」が問題になったとき「あ、あれはそういうことだったのか」と納得した。
まだ男女雇用機会均等法以前の時代だったから、OL時代の私は「自己啓発セミナー」には行かずにすんだが、年月を経たあるとき、この人物は私に「マインド・コントロールをしかけようとしているのではないか」と強く疑いながらも、自らの意思でその人物と関わったことがある(^_^;)

まだ「マインド・コントロール」という言葉はそれほど一般的ではなかった。
相手が、私に対して何か大きい勘違いをして、そういう働きかけをしてきているらしいことは、初めから私には「はっきりくっきり」と見えていた。

でも、少しイジワルなところがある私は、相手のその手の内を、この際だから見せてもらおう…と興味本位に思ってしまったのだ(^_^;)

その当時の私は、その相手の「下心」は、私にも見えるのだから、誰にでも「見えるはず」だと思っていた。
相手は、権威ある肩書を持っているとはいえ、少なくとも私には、「警戒センサー」がずっと止むことがない人物だったから。

だから、それから何年後かに実際に被害を訴える人が出たときも、その被害者の方には申し訳ないが、それは「自己責任」だろうと思った。
あんなに「危険信号」満載の人物なのに、それが見えなかったのだろうか、と不思議だった。
そもそも近づく方が悪いとさえ思った。
自分のことは棚に上げて…(^^ゞ


今回読んだ、この2冊の本には、マインド・コントロールや洗脳の「手口」「実態」が克明に記されている。
人格をも変えてしまうそれは、あまりにも凄まじいもので、言葉が出ないほど。

「自分の意思」ならば「自己責任」だろうけれど、初めから「目的」を隠し持って近づいてきた人物から、巧妙に「意思」をも操られていたとしたら…。

その手法は、程度の差こそあるものの、まさしく私が関わったその人物も使っていた。
私の場合、その時は、たまたま私には操られる隙間がなかった、ということだけかもしれない(-_-;)

人は「特別」に弱い。
私にもそういう要素はある。
が、「特別」という考え方は、ある意味危ないことも知っているし、元々キライな考え方でもある。

ヨーガをやっていたときも、最後の最後まで共感できなかったのが、その部分。
ヨーガの場合は、いわゆる「特別」というのともちょっと違うんだけれど。
でも、究極まで行くと、やはりそうなる(「極めた人」イコール「特別」な存在みたいな…)

精神世界の領域では、どうしてもそうなってしまう。

そのことは、それなりには理解できるが、みそっかす人生の私には、では究極までけっして行くことのない人はどうなるんだ…という思いの方が、やはり強い。

それは、ただ単に私とその講師との相性が悪くて、その教えをどうしても深く読みとれなかっただけかもしれないけど。


話が逸れた。

その人物に出会ってしばらく経った頃、この人が提唱しているものは、「特別」という考え方がまずありき…なんだ、とわかった瞬間、即座に自分の中の「警戒センサー」のスイッチがオンになった。
その瞬間から、こいつは「キケン」という色眼鏡で見るようになった。

しかし、相手の方は、私がそういう色眼鏡をかけたことを悟ると、今度はそれがあなたの間違いであり、それこそが問題なんだ、という論法になっていく。

なかなか巧妙で、なかなか手強かった。

私がこうやって、今ここに無事にいられる理由は…当時も今も、私が抱えている「問題」を、私自身がなんとかして「きれいに解決しよう」とは思っていないこと…だろう。

マインド・コントロールや洗脳を仕掛ける人が対象とするのは、何らかの問題を抱えていて、しかも、それをなるべく早くきれいにきちんと解決したいと思っている人のはず。 
真面目にその問題に取り組もうとする人のはず。

幸か不幸か、私は「問題」を抱えてはいたが、それを死ぬまでに解決できたらラッキー、と思っているような、とても不真面目なヤツだし、また、その「問題を」解決するために、誰かに頼ろうなんては、これっぽっちも思わなかったヤツでもあった。

いくら親身になってくれたとしても、またいくらその道のエキスパートであっても、人が人である以上、裏切らないだとか、間違えないだとかは、けっして断定できない(と思っている)。

いろいろな考え方は参考にさせていただくけれど、それを鵜呑みにはしない、という姿勢はずっと変わらない。
だって、それが間違ってるかもしれない、私には合わないかもしれない、と思うから。

人の提唱するものを無条件に信じて、もしそれが違っていたらダメージは大きいが、自分で考えたものなら、違っていても悔いは残らない。

自分の問題は、あくまで自分の問題であり、そこに一分の狂いもなくピタッと当てはまるような既存の「便利な考え方」はない、と思っている。
それに、急いで解決しないと明日が来ない、というわけじゃないのだから、あせる必要はない、とも思っている。


その人物は「人が見える・わかる」と言っていたにもかかわらず、私がそういうふうに考えていることはなぜか見抜けなかったらしい。
あなたの問題の解決のために自分が手伝う、と優しく身を乗り出してきた。

私が簡単には応じないと悟ると、次はソフトな脅しにかかってきた(笑)

それらは、今回読んだ本の手口と形は違えど、根本は同じだと思った(-_-;)

当時の私には、若さゆえのそれなりのパワーもあったからか、誘いにも脅しにも、1ミリたりとも気持ちが揺らぐことはなかった。

でも、今後私の「こころ」が揺らがないとは言いきれない。
あの頃のようなパワーがもうないことは、自覚している。
つけこまれる隙間はあるかもしれない、ということ。

今後のために、今回読んで得たものは、けっして忘れないようにしておこう。



それにしてもこの「洗脳」…彼自身のみじめな姿だけでなく、音楽業界の裏の部分まで垣間見える。
この本を出すのは、勇気がいることだっただろうし、何よりもホントに出しちゃっても大丈夫…だったのかな(^_^;)

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趣味は…「読書」

本日は、長い間、頭の隅っこにありながらも、きちんと整理していなかったことも含めてまとめておく、長い「自分日記」…のつもりだったけど。

おそらくは、まとめたとは言い難い、やたら長い駄文の予感(・_・;)



今、読んでいる新聞の連載小説に「たとえ母親だとしても、子供の読んでいる本を断りなしに調べるのは失礼。それは人の心の中に土足で入っているということ」という趣旨の描写があった。

その一節を読んでいるうちに、本に関連する過去の出来事を次々と思い出した。
連想ゲームみたいに、あれやこれやと思いを巡らすはめになってしまい、その日の小説は、読みかけのままそこで終了。

で、気がついたら、今はこんなものを書いている。


まず、思ったのは、私の母親は、こどもの口の中へキライな食べ物を無理やりに押し込んでしまうことが「正しい子育て」と考える「キョーレツな人」ではあったが、こどもがマンガ以外の本を読んでいることは喜ばしいこと、と思い込んでいる「単純人間(笑)」でもあったので、読んでいる本の内容に関して干渉されたことがほとんどないのは、幸せなことだったのかもしれない、ということだった。

ただし、読書感想文に関しては、干渉なんていうなんていう生易しいものではなかったけど。
「過干渉」の「過」の文字を超・特大サイズに表してもいいレベル。
学校へ提出する文章は作文・感想文の類すべてが、彼女の言うとおりに書くことを強いられた。

ところが…。
母親は、まるで少女雑誌に投稿されているような文章を書く人。
それはどこかの公式ページやメルマガの文章に似ていた…かも(-_-;)
今思えば、女学生時代に超がつくほどの優等生であったことが自慢の彼女は、作文にだけはかなりの苦手意識があったんだと思う。
自分が苦手なんだから、自分のこどもも当然作文は苦手なはず、と思い込んでいたらしい。

こども側としては、苦手かどうかを自覚する手前の段階で妨害を受け、端から自由に書かせてもらえなかったということを声を大にして言いたい。

私の文章を書く能力がちっとも育たなかったのは、「母親のせい」だ、と今でも恨んでいる(笑)


そうそう…。
マンガに関しては、母親がどこかの偉い人の講演で、子供にマンガを与えるのはよくない、と聞いたとかで、家では一切禁止。

しかし、親の目はいくらでも盗める。
第一、それができないような子供はマトモな人間には育たない(^_-)

上手に親の監視をくぐりぬけ、あの松本零士さんが、少女マンガ誌に「動物もの」を描いていた頃の作品が好きだった。
当時少女マンガ界ではとても人気があった牧美也子さんのご主人だということも、もちろん知っていた。

それを知っていても「マトモな人間」になることとは全然関係ないけど…(^^ゞ

社会人になってからは、さすがに親も何も言わなくなった。
そんな頃、コミック雑誌の武田京子さんによる石坂洋次郎原作の作品を読んだとき、初めて自分にマンガを読む能力がないことを知ることになる。

それまでも、小説は早く読めるのに、マンガだと人の3倍くらい時間がかかることが不思議だった。
石坂さんの作品は、先に原作を読んでいた(当時の彼は人気作家。個人的には男性目線の作品という感想)から、マンガで読むのと、小説で読むのとでは、理解できるまでに時間差があることに気がついた。

マンガ表現のなかでの人物の顔の区別がすぐにできずに何度も見直したり、絵と台詞が同時には理解できないから何度も読み直さないといけないのは、今もそう。
こんなことを、大人になるまで気がつかなかったのは、何ともマヌケだったと、今さらながら思う。


話が脱線しているので、元に戻そう。



中学3年生のときに、伊藤整の訳で有名な本を読み「これは難しすぎて、よくわからないことも多い。わからないけれど、でも何だか凄い」…と思ったから、その「何だか凄い…」だけの理由で同じクラスの子に貸した。
そしたら、その子の親が、貸したヤツはとんでもない子だ、と騒いだらしい。

が、今とは違い、教師に「器量」があった時代。
私は教師から何も言われなかったし、うちの親にもその情報は伝わっていない…はず。


そんな少女時代を経て、マトモかどうかは疑問ながらも、一応オトナになった。


あるサークルで知り合った人との何気ない会話中に起こった出来事は、今思い返すと「分岐点…」だった。
方向を間違えたら「大やけど」だったのかも。

そのときまで、その人と話がかみ合わない、ということは一度もなかった。
たくさんの趣味を持ち、身につけている洋服・装飾品・バッグ・靴などは一級品でありながら、けっしてブランドをひけらかさないものばかり。
そのさりげなさが素敵で、洗練されているという印象。
東京生まれの東京育ちながら、ご主人の転勤が多く、全国各地で暮らしてきた経験があるということだった。

私が出会ったときは、すでにこの地の暮らしにすんなり溶け込んでいた様子。
この土地で、多方面に活躍していた。
世の中にはこんなに「できる人」がいるんだ、と思った。

あるとき、サークル仲間内でどんなジャンルの本が好きか?という話題になった。
ミステリーと答えたのは私を含め数人。
私はジャンルというよりは「作家」で読むが、そういう場で「ヲタ話」の方へ進んでしまうようなことまでは言わない(苦笑)

彼女は、ミステリーと答えた私たちに、ドラマの原作で有名な女性作家の名前を出して、あの方の作品なの?…と。

丁寧な言葉遣いなのに、その表情が、ほんの一瞬だけ「上から目線」。
それは、まばたきしていたら気がつかなかったと思ったくらい瞬時のこと。

そんな一瞬の間に、私は彼女から、「蔑視…」の表情を感じとってしまった。
彼女のそういう表情は、それまでは一度も見たことがない。
ショックだった。

いつも穏やかで上品で、という「オモテ」に見えている部分は、まったくの偽りだとか演技というわけではないのだろう。


でも、「この人は、人間なら誰もが持っているはずの『マイナスの部分』を出さないようにするための薄い衣を、とても巧妙に身にまとっているのかもしれない…」と気がついてしまった。
注意深く接しているうちに、それまで見えていなかったものが少しずつ見えてくるようになった。

その方面に関心が薄いため、初めはそれほどでもなかったが、「宿命」だとか「トラウマ」だとか「カルマ」だとか「因果応報」だとかという言葉が会話に含まれることも、ワタクシの「警戒センサー」に反応するようになった

そういう考え方を否定はしない。
その類の言葉は「安易に流れてしまう」危険性もはらんでいるにしろ、間違っているわけでもない、と思っている。

彼女の周囲にはテレビドラマの世界でもそこまではしないだろうというようなことをする底意地の悪い「舅&姑とたくさんの小姑」がいて、とても大変そうだった。
だからこそ、彼女が言うその「宿命」などの数々の言葉に、大きい「説得力」はあった。
その「イジワル」が客観的な事実ではないかもしれない…なんてことは、疑ってもみなかったから。


やがて。
彼女自身が「自分の常識や考え方」を一度たりとも疑わない、岩のように「頑固」な人だということがわかってきた。
芯の部分には、あっぱれと言いたくなるくらいの強さや激しさを秘めていたように思う。
言い分を聞くかぎり、「彼女の常識」は、論理にほころびがない「正論」だった。
「正義感」の強い人でもあった。

知り合ってすぐの頃に聞いた、隣人にあげたものを、自宅の庭に投げ返されたことがあるだとか、別の隣人には無言電話を何回もされただとか、おしゅうとめさんたちから彼女への「彼女の主張するところのヒドい仕打ち」だとかの「そういう人々」の、にわかには信じがたい「行動の理由や意味」が、ようやく「見えてきた」と思った。

彼女にとって、自分の基準値に当てはまらない人間はすべて「敵」。
またその「敵」は、彼女の中では必ず「悪」という種類に分類されていた。

怖いのは、それらの「敵」に対しても、彼女の柔らかな物腰はそのままなので、一見しただけではわからないこと。


自分が「てっぺん」じゃないと気がすまないだけの人なら、それなりに対処できる。
でも、「正義・正論の人」とのおつきあいは、真綿で首を絞められていくみたいなもの。

このままだと、この私なんぞはすぐに、彼女の「許し難い敵」となるだろうし、やがて、その上品な姿に隠された「狂気…(語弊があるけれど、あえて使う)」によって、じわりじわり攻撃されていくのだろう、と思った。

そういう光景が脳裏に浮かぶようになった頃(変な想像力だけはある…苦笑)には、いかにして彼女から逃げようか、と考えていた。

「正義・正論」に、勝てるわけがない。


その生き方としては、「自分の正論」に矛盾するようなことは絶対にできないわけで、彼女はすっごく「苦しい」生き方を選んでいる、と思った。
だから、自分の中に「敵」を作ることで、その「苦しさ」を乗り越えているんだろう、とも思った。

彼女が酷いことをされたと言っている隣人やおしゅうとめさんたちの信じがたい行動は、先に彼女の方から見えない攻撃(侮蔑などの)を仕掛けられたことによる、「反撃」だったのではないか?と、今ではそういう想像・解釈をしている。


実は、彼女が口にしたその作家のものは一冊も読んだことがない。
書店で手に取ったこともない。
本屋さんの書棚の前に立っても、その作者の本から一度も「ビビビ光線」が飛んでこない。
つまりは、相性が悪い。

でも、そういうことを、言葉を使ってこの人に説明するのは難しいということを、そのときの彼女の一瞬の表情が教えてくれた。
「軽蔑ありき」の人とのコミュニケーションは、空回りする。
軽蔑心は、誰の心にでも存在しうるが、そういう気持ちが芽生えたとき、その人の心の中には、相手の存在はない(と思う)。

彼女に対するわずかな違和感をキャッチしたことで、その時点でそれ以上は彼女と、その作家に関する話題を広げる気になれなかった自分を、誉めておこう(苦笑)
本を話題にしたことで「かすかな疑惑…」が芽生え、本能的な警戒心からゆっくり自然にその人から遠ざかることができたのは、ホントによかった、と今は心からそう思っている。

「優雅で穏やかに見える薄衣を、あれほどまで巧妙に身にまとえる」のだし、各地でたくさんの人脈を広げてきていたのだから、「そっち方面」へ進めば「大教祖様への道」もあり…のような気さえしていたが…。

東京へ戻って以降、こころのバランス状態がよくない…らしいことは、風の便りで知った。


またまた話が逸れたので、軌道修正…(^^ゞ



履歴書の趣味欄に書くのが「読書」や「音楽鑑賞」だけの人は、雇用者側からは個性がない、と判断されるらしい。

私はまさしくそのタイプ。
「趣味は何?」と聞かれたら「音楽を聴いたり、ライブへ行ったり、本を読んだり、旅に出たり」…と、そのくらいしか答えられない。

自家製パンは焼かないし、パッチワークや編み物は、まったく性に合わない。
ガーデニングなんて、手が汚れるし、汗をかくから絶対イヤ(苦笑)
運動オンチだから、しつこく誘われてもママさんバレーには初めから行く気もなかった。

つまり、趣味欄に記入しておくと効果がありそうで、人さまに自慢できるような趣味は、皆無。


しかし…。
現在は見るのを断念してしまったけれど、朝ドラで、子供時代のハナコさんが、図書室の本に目を輝かせていたシーンには「わかる、わかる」と頷いていたくらい、私も子供の頃から「活字」は大好き。
広告でも小冊子でも新聞でも、とにかく「字」が書いてあるものは何でも片っ端から読んでいた記憶がある。

その頃は、もちろん意味がわからない言葉や読めない漢字が多かった。
そういう場合、辞書は引…かずに(^_^;)前後の文章から、意味や読み方を想像&判断しては読んでいた。

辞書を使わないのは…いちいち辞書で調べるのが面倒だったから(笑)
生来のものぐさなので、今みたいに電子辞書があっても、おそらくは使ってないだろう。

とんでもない文章の読み方だったと、自分でもそう思うことはある。

でも、その方法だったからこそ、自分なりの「読解力」や「想像力」が身についた、とも思ってる(マジでそう思う)。

今は、「目が年とった…(-_-;)」から、読まずにすませられるものに関しては、読まないことにしている。
だから、さらに辞書を使う機会は減った。
ひと月ほど前に買った文庫本も、まだ冒頭部分しか読めていない。


そんなヤツだけど、それでも「趣味は読書」と言いたい。



ちなみにミステリーでいちばん好きな作品は、宮部みゆきさんの「蒲生邸事件」。
そして、純粋なミステリー作品ではないが、重松清さんの「流星ワゴン」。

「蒲生邸事件」は個人的には、直木賞受賞の「理由」より好きだし、ずっと直木賞にふさわしい(…と思う)が、世間的には評価が分かれる作品かも。

「流星ワゴン」は、ちょうどそれを読んでいたとき、たまたま知り合いから電話がかかってきて、何してる?と聞かれから、こういう本を読んでると答え、その後ずいぶん経ってから「あの本を勧められたし、評判もいいみたいだったから読んだけど、自分には合わなかった」と言われたことがある。

別に勧めたつもりはないが、ちょうど「話の中」へ深く入り込んでいたところへの電話だったから、いい本だよ、と言う言葉に力が入りすぎたか…(^^ゞ
「家族であっても、否、家族だからこそ、わかりあえないことがある」という厳しい現実を描きながらも、最後はほんのかすかな「希望」の光を見い出すことができる「温かいお話」なので、私は好き。

でも、「趣味(好み)」は、人それぞれ。
感想はそれぞれ違っていて、いいのだ(^_-)

…と、ようやく本題に戻れたところで、本日これにて終了。



この、長くてまとまりのない文章は何…。
ハイ、すべては母親のせい…ではなく「ワタクシ」の能力不足。
ごめんなさい<(_ _)>

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「雪の断章」

先日来のかたづけにより、ひょっこり目の前に現れた佐々木丸美さんの作品。
数えたら全部で11冊所有。
寡作な方だったので、これでもけっこう持っている方かも。
      ↓
佐々木丸美

この作家の作品は若い頃によく読んだ。
亡くなられていたことは、知らなかった。

「雪の断章」がデビュー作。
もう40年くらいも前のこと。
最初に読んだとき、設定が昔の少女漫画みたいと思った。
「これはないだろう~というつっこみどころ」がとても多い作品でもあった。
ミステリーとしては、読み手側からはすぐ犯人がわかってしまい、あまりにも単純すぎる。

でも、魅かれた。
主人公の「気持ち」の揺れに共感するところが数多くあった。

今回、読み直してみて、若い頃と同じようなところで「ツッコミ」&「共感」。

さらに…。
以前とは違う観点からも解釈することができ、オバちゃんになってもまだまだ自分は「感じとる」ことができるんだ、とちょっぴり安心。


一度「映画化」されたけれど、当時、その映画では原作のよさは出ていないと思った<(_ _)>
今の時代の方が、映像化したら逆にウケるかも。
映像での心理描写はかなり難しいとは思うけど。

category: 読書

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