本日は、思い出話。
子供の頃から現在まで、たくさんの本に出会っている。
だから無人島へ持って行く1冊を、私は選べない。
それでも選べと言われたら、20~30冊くらいにまでは絞れるだろうか。
宮脇俊三氏の「最長片道切符の旅」と「旅の終りは個室寝台車」は、その中に必ず入る。
宮脇氏の本に出会ったのは、まだ20代の頃。
作家デビュー作品「時刻表2万キロ」を読んだのが、最初の出会い。
この作家との最初の出会いの記憶は、今も鮮やか。

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出会いの本は、実家の本箱にあった。
里帰りしたときに見つけて、ちょいとお借りしたまま(^^ゞ現在に至る。
両親はどちらも同じ本を何回もくり返して読むタイプではなかったから、返してくれとは言われなかった。
母親と本の内容について話したことは憶えているが、父親とこれを話題にした記憶はない。
でも、おそらくこれは、旅好きだった父が買ったものだと思う。
旅関係の雑誌を定期購読していたほどで、鉄道にも地図にも詳しい人だった。
確認すると、初版ではなく1978年9月の5版発行となっているが、私が読んだのは1980年より後のはず。
「時刻表2万キロ」は、当時の国鉄全線の完乗記。
当時の私の読後感は「ノンフィクションの読み物としては面白いけれど、この作家の心理は理解しがたい…」だった。
その頃、鉄道は移動手段であるとしか思っていなかった私には、国鉄の全路線に乗るという意味はわかってはいても、宮脇氏の鉄道に対する「愛」を理解するところまではいかなかった。
いい年の大人が、用事もないのに鉄道に乗って、それを楽しんでいるというところまでは、なんとか理解できた。
でも、この作者は完乗を目指しているというのに、肝心なところで目的の列車に乗り損ねるというような失敗もする。
その頃の私には、そういうところは、理解できなかった。
若いころの私は、今の私しか知らない人には信じられないかもしれないが、けっこう完璧主義者で真面目。
考え方にゆとりがなく、四角四面。
今から思えば、本来の自分ではなかった(と思う)。
なぜなら、四角い部屋はきちんと四角に掃いていたから…いや、少なくとも四角く掃こうとしていた(苦笑)。
他人の間違いやミスも許せないというイヤ~なヤツだった。
あっ、今もいいヤツじゃありませんけど(^_^;)
そういうヤツだったから、事故ならしかたないけれど、自分のミスで目的の列車に乗れなかったなんて、なんて情けないおじさんなんだろう~と、読みながら、そう思ったことは、よく憶えている。
「ただ好きだから鉄道に乗る」ということへの理解が足らなかった。
読み物としてはとても面白いと思ったし、上品な文章を書く作家だとは思ったけれど、その時点では鉄道に興味がわかなかった。
宮脇氏に対するアンテナは張り巡らさなかった。
その後のかなり長い期間、書店で彼の作品に出会うことはなかったのは当然。
好きな「本」に出会うためには、少しばかり「アンテナ感度」を高めておくと、その確率が上がる。
そうすれば、必ず「本」の方から近づいてきてくれる(…と私は思ってる)。
ふらりと入った書店で見かけた宮脇氏の文庫本「旅の終りは個室寝台車」を手に取ったのは、ほんの偶然だった。

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私の「旅の終りは個室寝台車」との出会い、つまり宮脇氏とのホントの出会いは「時刻表2万キロ」を読んでから6~7年も過ぎた頃。
不思議なことに、この本も実家がらみ。
実家がある町の、今はもう他の書店に変わってしまったけれど、当時の紀伊国屋書店でのこと。
地方に住んでいる者としては、あの「紀伊国屋書店だ~」というちょっとした憧れがあった時代。
買いたい本があったというわけではないけれど、なんとなく店内に入り、文庫本コーナーに置いてある「旅の終りは個室寝台車」が目に入った。
「時刻表2万キロ」は実家から拝借したままであっても、その時まで何度も繰り返し読んではいない。
作者名は忘れていなかったので、あの鉄道好きおじさんの本だ、と手に取った。
表紙カバーの絵と題名に惹かれた。
短編なので読みやすそう、とも思った。
その日、私が着ていた洋服は、白地に赤い小花模様があるフラットカラーの綿シャツブラウスだったはず。
印象が強いものと出会ったときは、そのときの自分の服装まで思い出せる。
今でも「旅の終りは個室寝台車」を読むたびに、旅のお供の「汽車よりもクルマ派の編集者」と、鉄道をこよなく愛する作家との、かみ合っているとは言い難い会話に、思わず笑いがこみあげてくる。
乗りものに対する思いは全然かみ合わないふたりだけれど、旅の途中での食べ物調達のときだけは、ぴったり息が合う。
この本を最初に読んだときは、汽車旅の様子そのものよりも、まず宮脇氏の文章に惹かれた。
頑固で、ちょっとイジワルな皮肉屋、でも品があって…文章からは、作者のお人柄がそういうふうに読みとれた。
鉄道旅紀行本ではあるけれど、クルマ派だったはずの編集者が、担当作家の旅に同行するうちに、次第に鉄道マニア的要素を持つようになるその過程までもが、作家側からの視点による簡潔な文章で表現されていた。
同行の編集者のキャラクターが、また、なんともいい。
宮脇氏の他の作品に登場する編集者の方々もそれぞれユニークだとは思うけれど、この作品に登場する編集者さんが、私はいちばん好き。
作家と同行する編集者ふたりの人物像までもが浮かんでくる、鉄道紀行のジャンルを超えた作品だと思った。
もちろん、鉄道紀行としても素晴らしい作品だから、気がついたら、鉄道にはまったく興味がなかったはずの私が、読み終わる頃には、こんな旅をしたらわくわくするだろうなぁ~と思うまでになっていた。
今のようにネット時代ではなかったから、本屋さんへ入ることがあれば、必ず彼の作品を探すようになった。
そういう頃に読んで、今も無人島へ持って行きたいと思う「最長片道切符の旅」の方は、どこで買ったなんていう記憶はない。
買った日に着ていた洋服も、憶えてはいない。
宮脇作品の魅力をじゅうぶんに知った後に読んだから、本自体との出会いの瞬間の記憶はない、ということなんだろう。

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「最長片道切符の旅」は、非常に簡潔に言えば、昭和53年当時の国鉄路線の北海道から鹿児島までの最短経路2764.2キロを、最長片道切符を使って、13319.4キロ乗った記録。
同じ駅を通らなければ、どんなに遠回りをしても片道切符になる。
つまりは、一筆書きルートの鉄道旅。
当時のルートでは68日間有効・片道切符代金は、なんと65000円也。
彼は正味34日間で、そのルートを乗り終えるのだけれど、実は、最後の最後…。
そのくだりを読んだとき、私は、彼を情けないおじさんなんて、もうそんなふうには思わなかった。
「旅の終りは個室寝台車」の読了後は、こんな旅は面白いだろうなぁ…くらいの気持ちだったものが、「最長片道切符の旅」の読了後は、チャンスがあれば私も鉄道旅がしてみたい…に変わった。
そう思ってから、実際に旅をするようになるのは、かなり先のことだったけれど。
「旅の終りは個室寝台車」に出てくる「雪を見るなら飯山・只見線」の只見線は、雪のかけらもない夏の暑い時期に乗った。
夏でも車両にクーラー設備はなく、窓を開けていると肌寒いくらいだった。
運行本数が非常に少ない路線なのに、SOPHIA関連で仙台を目指したとき、北陸本線経由ルートスケジュールの中に、いい具合に収まってくれた。
また「飯田線・天竜下りは各駅停車」の飯田線に乗ろうと思ったときは、宮脇さんたちと同じ上り列車ルートを、旅のどの日程の中に組み込もうかと、あれこれ考えるのがとても楽しかった。
そして、実際の旅では、駅から出発したと思ったらやっぱりすぐ次の駅だなぁ~と、本の内容を思い出しながら、各駅列車での鉄道旅中にはほとんど必要がないウォークマンを取り出し、私も「中島みゆき」を少しだけ聴いてみたりした。
他にも、宮脇氏の著作からはたくさんのことを教わり、大いに楽しませてもらっている。
私自身の列車乗り継ぎ旅の経験の中で乗り継ぎに失敗したのは、たった一度だけという「つまらない優等生っぽさ(^^ゞ」は、まだ残っているけれど、どうやら本来の性格らしい「気まぐれや向う見ず…」は、こういう旅を重ねたおかげで、いい意味でその要素が少しずつ顔を出し始めるようになった、と思う。
島根・鳥取周辺を旅した際、計画には入れられなかった宍道湖の素晴らしい夕景を眺めることができたのは、まさにその「気まぐれ」が発端。
今どきの女性からは猛反発されるかもしれない、宮脇氏の「女性観」については、私自身にもその要素があるので、読むたびに笑う。

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宮脇さんが亡くなった後で出版された本は、入手はしたものの、実はいまだにちゃんと読めないでいる。
たぶん、もう5年以上(?)も本棚で眠ったまま。
だって、この2冊を読み終えてしまったら、ホントのホントにお別れを言わなければならなくなってしまう。
私の中の宮脇さんは、今もどこかで鉄道に乗っている。
最後に。
宮脇氏が出版社の編集者時代に、北杜夫氏を担当して世の中に出したことや、北氏と隣人であることを、宮脇氏の作品を読んでいくうちに知ったときには、とても驚いた。
北杜夫氏の「どくとるマンボウ」シリーズは、中学・高校時代の、私の「無人島へ持って行く本」
宮脇俊三:紀行作家
1926年12月9日生 - 2003年2月26日没