第1896回「長く続けていることって何?」
長く続けていることは…「日記」
このブログではなく、フツーの日記。
まだ義務教育を受けていた時代、ある日突然「そうだ、日記をつけよう…」と思い立った。
それから途切れないで今日に至る…ということは、めっちゃ長く続いている、と自慢できるかも。
しかし…(^_^;)
過去の日記帳が、いったい全部で何冊あるのかも把握していないし、捨てたりはしていないけど、それらがどこにあるのかは、実はよくわからない。
机の引き出しだったり、本箱の片隅だったり、いろんなところにある…はず。
また、その年によって、ちゃんとした日記帳だったり、3年や5年日記帳だったり、また、ごく普通の大学ノートだったり、と記入形式もバラバラ。
習慣というか、自分にとっては当たり前になってしまったことなので、記入済みの日記帳そのものには執着していない。
多感な頃は、ホントの日記と言えるものだったようにも思うが、徐々にただの「記録」と化した。
それでも、たまには「感情」のはけ口になっている記述も見受けられる。
3年や5年日記形式だと簡単に読めるので、何かのついでに読むことがあるけど、感情のはけ口の場合は、いったい何に「爆発」していたのかまったく思い出せないこともしばしば。
書くことで、自分の中で「気持ちの整理や切替え」の効果はあるみたい。
逆に、ただ事実だけを淡々と書いているときの方が、そのときの自分の感情をありありと蘇らせることができる。
こういう場合、外からはけっして見えない「邪悪」な感情も存在する。
見えないのは、自分なりにその感情の取り扱いには注意してるから。
寝た子を起こしたくはないから、あまり読み返さないよう無意識に自制ってか?(苦笑)
もう「いいオトナ」なので、今後も自分の中でそういう感情とは折り合いをつけて…いける、たぶん(^_^;)
実はこの日記、忙しいときは何日か分をまとめて書く。
つい先日も、何と1ヶ月分をまとめて記入した。
記憶をたぐり寄せられる「モノ」さえ残っていれば、自分の行動に関しては、案外思い出せるものなのでござる(^_-)
過去に、約2年間分をまとめて記入したことがある。
「介護」という、もうひとつの日常の方に追われていて、気がつけばクリスマスもお正月もいつのまにか終わっていた…みたいな時期が続いた。
手帳に残しておいた簡単なメモで、その期間中の日々の出来事や自分の行動の主な部分は案外簡単に思い出すことができたのには、自分でも驚いたけど。
超・多忙でありながらも記憶が鮮明ということは、それだけ充実した日々だったのだろう。
客観的に見れば楽しい忙しさではなかったはずだけれど「嫌だ」とか「大変だ」と思ったことは、一度もない。
それは、そう思う時間すらなかっただけ…なのかもしれないが。
話が逸れた。
今の時代、買い物のレシートには日付だけでなく時間も入っている。
携帯のメールやりとりや通話記録も残る。
なので、いわゆる「行動記録日記」だけであれば、1ヶ月くらい前までの分ならじゅうぶんさかのぼれる。
ただ、近年は自分の頭の中だけにある記憶に関しては、記憶棚へ収納する前の段階で、収納が楽にできるよう、早めに記憶の中身をコンパクトにしてしまうらしい。
この記憶は完全に正確なものではない気がする、ビミョーな部分が違っている、と後になって思うことが増えた(-_-;)
記憶保存箱の容量がだんだん少なくなっていることを、ひしひしと感じる、今日この頃(苦笑)
というわけで、これからは日記はなるべく毎日、その日が終わるまでにつけるようにしよう(^_-)