「水」…は本当に必要なものなんだけれど、本当に怖いものでもある。
今回のことで、改めてそう思った。
言葉が見つからないけれど、心よりお見舞い申し上げます。
いつもはテレビで見るだけの被害状況。
でも、今回…。
実は他人事ではなかった!
7日の朝、田舎の母が住んでいる場所から車で3~40分くらいの町で記録的な大雨が降ったというニュースをテレビでちらっと見た。
実家は高台にあるので、浸水の心配はまずない。
しかも、周辺に特別警報までは出ていない。
ただ、大雨によって、実家よりももっと上の方にある住宅の方から土砂が崩れてくる心配が皆無というわけでもない。
まだ時間が早かったので、母に電話すべきかどうか迷っていたら、なんとすでに避難所に入ったという母からの電話が兄の家へ。
早朝に川が氾濫するかもしれないということで、避難指示が出ていたそう。
母にとっては、その川が氾濫するなんて考えられないので、防災無線放送を聞いても、最初は他の地域のことだろうと思い、避難する気はなかったらしい。
合併したことで市の範囲が非常に広がり、無関係の情報もよく流れる。
だから、そういう認識だったそう。
確かに大雨は降っていたけど。
ところが、ご近所の方から、同じくひとり暮らしのお隣さんも、たった今避難所に連れて行ったから、同じ避難所へ行った方がいい、車で連れて行ってあげる、と言われたので家を出たということだった。
91歳ひとり暮らし。
かなり以前から携帯電話を持ってはいるが、緊急時に役立ったのは初めて。
その後は電話しても繋がらない(おそらくは、本人に着信音が聞こえないだけ…)ので、本人からの情報は得られなかったから、テレビ&ネットで情報収集に努めたが、詳しいことがよくわからない。
大雨で浸水の可能性があるので、避難指示が出た…母自身から聞いたのは、その程度の情報のみ。
全国的にいろいろな場所で大雨被害が出始めていたこともあり、テレビはその情報ばかり。
県外在住の私たちには、母の住む場所の情報はなかなか得られなかった。
実家の建物は、浸水することはまずないだろう。
避難しているという公民館も頑丈な建物。
避難指示による避難なので、食糧・飲み物類にはたぶん不自由はないだろう。
ただ、母は杖がないと歩くのがつらいので、そういう点では困っているはず。
でも…実のところ、その時点では、こんな大きい被害だとは、母も私たちも想像すらしていない。
避難所にいたとしても、せいぜいその日一日だけだろうという認識。
川はあるけれど、今まで水が溢れたなんて、私たちも一度も聞いたことがなかったから。
とにかく…。
私たちの顔を見せることで母は安心するはずだし、私たちも母の顔を見て安心したいから、天気が回復する9日の月曜日には帰省するつもりにしていた。
そんなとき、夕方のテレビニュースで母の住む町の映像が一瞬だけ流れた。
なんと、町のシンボルとなっている建物が半分近くまで浸かっている。
その時点で、道中での雨の心配は残っていた。
それでも…。
相棒くんと翌日(8日)の帰省を決断。
ちょうどその頃に、母が家へ戻ったという連絡。
避難所も停電しているので、家にいるのと変わらないと決断したらしい。
その判断は、91歳にしては上出来。
しかも、真っ暗になる前に自宅へ戻ろうと、いちばん高齢者の母がいちばん先に近所の方々に提案し、説得もしたそう。
相棒くんが、とにかく明日迎えに行くからということと、もしまたどうしても避難所へ行かなくてはならなくなったら、そのときは自分たちが母のいる避難所まで出向いて、母を探すから安心して、と伝えた。
テレビは、「インパクトのある映像」の場所しか放送しない。
被害が出ていても、映像がなければ、それほどその話題を取り上げてくれない。
相棒くんと私がやっとの思いで実家にたどり着いた時点で、母の住む町へ通じるルートはひとつだけ。
迂回路を通らなければならない箇所に、迂回路を示す看板すらなかったが、そういうことについてはマスコミでの報道は一切なかった。
ここであの日の現実の状態だけは記しておく。
映像なんて撮る余裕はなかったけど。
文章で残しておくことはできるから。
7/8(日)の状況
道路の端っこの部分が川へ崩落しているところを通らなければならなかったり、迂回路が、橋の上に散乱しているがれきを近くのおじいさんがたったひとりで片づけてくださっている場所だったり、道路脇の崖の方から水が滝のように流れている場所でも、そこを通るしかないからか、そこには何の規制もなく、それでも、緊急事態だから対向車同士がマナーを守って譲り合って離合するような状況。
崩落していた場所と、全面通行止めの入口だけには、パイロンこそ置いてはあったが、本来ならそこには係員を配置すべきようなところ。
特に、崩落していた場所は、普通だったら、絶対に通行止めにするだろう…状態。
被害があまりに甚大で、手が回らない状況…と見て取れた。
それに、そこを通行止めにしたら、もう迂回路はないのだろう、とも思った。
そういう情報はテレビでは一切報道されなかった。
ネットで調べた「お役所」が出している情報も、救出に行きたい私たちには役立たないようなものばかり。
母を迎えに行くとして、いちばんの心配は山の奥の盆地という立地の実家への道路事情だった。
帰省を決断した後(7/7夜)は、ネットでTwitterなど一般の方々が発信している情報収集に努めた。
一般人が発信するネット情報は正しくない場合も多いけれど、「公的機関」の情報が皆無なのだからしかたがない。
どれが正しくて、どれが怪しいかは、自分で判断するしかない。
メインルートで行く方法は、道が半分崩落している画像を見たので、早々に除外。
いつも我が家が使っている、いわゆる抜け道も、大洲からのルートの方は大洲地区が冠水しているのでダメ。
こちらもよく使う内子からのルートは大丈夫というTwitter情報。
どちらの道も知っている(地形がわかっている)から、それはじゅうぶん納得できる情報だった。
しかし、その先のルートについては、別の方の情報によると、大回りして、日頃は通らない町を経由しないと、どうやら実家のある町へ入れない?
そこは日頃は通る必要がないだけで、行ったことは何度かある町。
地理的に考えても間違いではないと思える情報だったから、参考にすることにした。
8日の朝6時過ぎ、高速道路情報だけは正式な発信源から情報収取(苦笑)して、出発。
高速道路情報によると、香川県内は下道を走るしかない状態に思えたが、一応高松西インターへ行ってみると、その時間には愛媛県の途中までは行ける状態になっていることが判明。
それだけでも時間的に大助かり。
結局、その後一度は高速から降ろされたが、また少しの区間は高速に戻れ、その後また下道に降ろされ、ようやく内子に到着。
大洲からの道に合流する地点で信号が点いていないことに気がついた。
停電しているけれど…。
信号が点いていない場所だけれど…。
お巡りさんは立っていなかった(^^;)
通常では、まず考えられないこと。
その後は前述したとおり、迂回路への案内なしの全面通行止めの看板だとか、崩れてきた土砂を道路脇へ寄せているだけの箇所だとか、流されてきた車や布団(この場所の惨状に関しては、なぜそこに車や布団などが流されていたのかがよくわからない)を、かろうじて道路脇へ移動させただけの場所とか…。
それらの場所を通過しているうちに、本当に母の家へたどり着けるのだろうか?
そして、たどり着けても、今通ってきた道は、帰るときにも崩落せずににちゃんと残っているのだろうか?
そんな思いにかられた。
そういう思いが頭をよぎりながら、ようやく町へ入ることができた。
何とか車は通れそう。
しかし橋の両脇は、とりあえず車が通行できる状態にするために急いで片づけたと思われるがれきの山。
町の中心、いわゆるメイン通りなので、ここの道路は非常に重要。
通れるだけでもありがたい。
いつもとはまったく違う光景に胸が苦しくなる思いで、実家へ急ぐ。
実家到着は、11時すぎくらいだったか…。
渋滞がない場合、飛ばし屋の相棒くんの運転だと我が家から3時間もかからないときもあったけれど、約5時間もかかったのは、やはり高速の規制が全面解除にはならなかったのと、2回も迂回路を通らなければならない状況だったことだろう。
覚悟していたよりは、早く到着できたと思うけど。
家の周辺まで行ってみると…。
自宅手前の道に、通行止めのパイロン。
ま、この程度なら、母もじゅうぶん歩ける距離だし、私たちが荷物を積み込む際も、それほど大変じゃない。
でも、ここから通行止めということは…うちの家より上の道路は崩れている?
それよりも家はどうなった?
…母の家は、大丈夫だった。
母が言うには、前日に避難所から帰ってしばらくすると暗くなってしまったし、この日の午前中は、近所の方や、お世話になっている役場の福祉担当者が来てはくれたものの、結局のところ、自宅以外の周辺状況は、あまり自分はわかっていないとのこと。
停電しているから、テレビも見ることができないので、避難所にいたときも、また自宅に戻ってからも、ほとんど詳しい情報は知らないままだったらしい。
断水しているところも多いようなのに、その時点で、母の家は水は一応出ていた。
しかし停電は続いている。
固定電話も使えないし、その時点で、なぜか携帯電話も繋がらなくなっていた。
母は、、いつもだったら絶対にタクシーに乗る距離をご近所さんの方々と避難所から歩いて帰ったものの、いちばん被害が酷かったところは目にしていない。
それに、私たちがかなり迂回せざるをえない状況だったことは、いろいろな方に聞いて理解はしていたものの、私たちふたりが目にしてきた道路の現状をまだ知らない。
私たちふたりが、とにかくこの町から早く脱出しようとしていることが、すぐには理解できなかったみたい。
細かく説明していくうちに、何とか冷蔵庫の中身についても一部分を除いてあきらめてくれた。
家へ到着して、たぶん3~40分後くらいには、電源ブレーカーを落とし、戸締りもすませて家を出たと思う。
そして12時40頃だったか、すべての危ない箇所をクリアし、高速道路の内子インター近くまで戻ることができたときには、もう何と表現していいかわからないけれど、本当に本当に…ホッとした。
が、内子インターからの高速道路はまだ不通。
そのまましばらく下道を走り、ようやく伊予インターから高速に乗ることができた。
高松へ戻り、兄の家まで母を送り届けたのは、夕方4時過ぎ頃だったかな。
ホントに長~い一日(*´ω`*)
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